No 8
本当の雄略天皇陵
全国で五番目の墳丘長を誇る河内大塚古墳を明治時代に訪れた浜田耕作氏は、埴輪の破片が各所に散乱しているのをみていますが、履仲天皇の孫に当たる顕宗天皇は、父の磐坂市辺押磐皇子を雄略天皇に殺された怨みから、その陵を壊してと、記紀に出て来るのですが、兄、後の仁賢天皇は、側を掘っただけで、顕宗天皇をいさめたとあり、丹比高鷲原陵では、現在の島泉も西大塚も河内国丹比郡内になるので、江戸時代に治定された陵は、墓違いをしていると言われています。私もそう思います。
本当の雄略天皇陵と思われる陵の寸法
 墳丘長  前方部   後円部  
   高  径  高  頂高
335m   230m  4.5m  185m  20m  46.1m
倭の五王
本当の雄略天皇陵と思われる陵
所在地 
 羽曳野市南恵我之荘8丁目(半分)
 松原市西大塚1丁目(残り半分)
江戸時代の松下見林や新井白石は、讃を履仲天皇に当てていますが、宋書巻九十七列伝に因ると永初二年(西暦421年)に讃が修貢、誰かが元嘉七年(西暦430年)に朝貢して来たと有るが、私の更正した天皇の西暦年でも、仁徳天皇・履中天皇・反正天皇も崩御しており、西暦430.年は允恭天皇の時代で、バタバタと天皇が死んでは対外的に不味いので工作したらしく、宋書には元嘉十五年(西暦438年)弟の珍が立つとある。その珍は履中天皇で、反正天皇と允恭天皇が抜けているのです。倭国の急変の事情を知らない宋は、間違いを起こした訳です。倭国も取り込み中で間違いも知らなかったのでしょう。武は誰もが認める上表した雄略天皇で、興は残る安康天皇です。
所在地 羽曳野市島泉8丁目
現在の雄略天皇陵の航空写真
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