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卑弥呼(日葉酢媛命)と壹与(神功皇后)の陵
卑弥呼(日葉酢媛命)と壹与(神功皇后)の陵の在る付近の地図
2008年2月22日より神功皇后陵の発掘調査が始まり、築造時期が遅いのがはっきりした。
神功皇后の墓違い
上の陵は、右が日葉酢媛命陵で、左が成務天皇陵と言われている場所の航空写真です。このような配置になったのは、続日本書紀に因ると、第五十四代仁明天皇の時代、天皇が即位されると直ぐに、和気真綱を遣わして、御劔と幣帛とを、八幡大菩薩(応神天皇)の宮と、神功皇后の香椎の廟とに奉っている。ところが仁明天皇の御代の半ば、九州の阿蘇で、天変地位が起こり、どんな旱魃にも水を湛えていた心霊の池が、急に水が減り驚いた大宰府から、知らせがあった朝廷は承和九年の年末に,神功皇后の御陵に国家の平安を祈って神宝を奉った。ところが、承和十年(西暦843年)になると御陵が鳴動したり、なにか真っ赤なものが飛び去ったりと言うような、異変が相次いだので、使臣達が集まって、古記録を取り出して検討してみたところ、神功皇后と成務天皇と、御陵を取り違えて、今迄神功皇后の御陵だとばかり思って、成務天皇の御陵を空しく拝んでいたことが判った。それでは神功皇后も、納まらない筈である。此れ以降、神功皇后の.御陵へは。仁明天皇は何もしておられない。長年の間違いが訂正されて、皇后も安らかに眠られたのであろう。この記録は続日本の筆者が理由がわからないと注記している。だから昔承和十年以前は今の成務天皇陵が神功皇后陵で会ったのです。卑弥呼(日葉酢媛命)と壹与(神功皇后)の墓は並んでいなくては成らないのです。成務天皇陵の盗掘が多く、神功皇后=卑弥呼の墓と皆は思っているのでしょう。康平六年(西暦1063年)に興福寺の僧の静範らが成務天皇陵の副葬品を盗掘したと扶桑略記にあり、嘉永四年(西暦1851年)に皇陵盗掘者が捕らえられた事件があり、盗掘は七年前の弘化元年から行われていたとあり、嘉永元年(西暦1848年)にもあったのです。その狙いは、倭国に二つ有る金印と考えられる。一つは「漢委奴国王」印であり、天明四年(西暦1784年)に筑前国那珂郡志賀島の叶の崎で農民が発見している。もう一つは魏志倭人伝に出て来る金印で、景初二年十二月詔書して、倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。・・・・汝を持って、親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付して仮授せしむ。」の金印なのです。「親魏倭王」の金印を卑弥呼の陵に有ると盗掘犯は思ったのでしょう。
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右が日葉酢媛命陵で左が
成務天皇陵?と言われている陵の航空写真