No 6
邪馬台国への道
前ペ−ジの銅鏡は邪馬台国から中国の魏朝の洛陽への道を教えているのです。.それは、倭(大和)から丹波、丹後へそして日本海側を通って、出雲から北九州へのル−トを教えているのです。要するに、魏志倭人伝の作者、西晋の学者、陳寿は、倭国から魏国へ行った倭人の話から、倭国への道筋を書いた筈です。例えば大阪の人が東京へ行った話をして、「大阪から東へ向いて行った。」と言ったなら、東京の人は、「東京から西へ向いて行ったら大阪だ。」と言う筈です。それと同じように、陳寿も解釈したはずです。それでは一番問題になるのは、倭への道が南を向いている事です。それを倭から考えると、北へ向いている事なのです。倭(大和)から、丹波(第十一代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命の生まれ育った地)丹後へ抜けるのは北向きで、若狭湾から北へ向いて船を出し海岸沿いに出雲へ抜け、そこから北九州へ行った筈で、出雲市の大社町の稲佐あたりに寄って行ったのです。何故なら吉備は邪馬台国を凌ぐ大国で、瀬戸内海は通れなかった筈です。日本武尊(幼名 小碓皇子の二番目の妻は吉備武彦命の娘吉備安戸武媛である)によって、初めて瀬戸内海を通れるように成ったのです。だから神武天皇が東征出来るわけが無いのです。
第十一代垂仁天皇に命おじられて、菓子の神様として知られる田道間守命(タジマノモリノミコト)は非時香菓(トキジクノコノミ)を探しに常世の国へと出かけ、無事に実を採取し、葉と実を連ねた枝を八本と実だけを連ねた枝を八本携えて帰朝したが、十年余りの歳月が過ぎていて、報告すべき天皇は崩御していた。そこで田道間守命は、持って来た木の実の半分の四本づつを皇后の日葉酢媛命に献上し、残りの半分を垂仁天皇の御陵の入口にそえ、その場で泣き叫びながら死んでいったと言う。先妻狭穂姫の兄狭穂彦王の謀反で、子供、妻を失くした天皇は、十年後に狭穂姫の言い残した丹波道主命の四人を後宮に入れ、長姉の日葉酢媛命を皇后とした。この時、本当は五人だったのですが、末の娘は幼いから断られたと私は思うのですが、悲観しおて丹波へ帰る途中の池に身投げして死ぬのです。その結果が乙訓郡の地名を残したのです。昭和五十年頃には在ったその池も、今は駐車場に変わっています。崇神二十九年生まれの天皇は、この年五十五歳のはずで、三十五歳も若い皇后が先に死ぬわけは無いのです。
No 7
第十一代垂仁天皇は皇后日葉酢媛命より先に崩御した
左の地図は良く出てくるのですが、明の建文四年(西暦1402年に、朝鮮で作成された「混一彊理歴代国都之図」ですが、丁度南の方向に長い日本が書かれているのです。これも陳寿の書いた魏志倭人伝に、影響されて書かれたと思われます。しかし朝鮮民族の人も、そう思っていたのかも知れません。
日本(大和)武尊に因って、主要な地域を制定した倭国は、時の天皇、第十二代景行天皇が、50人以上に及ぶ皇子女を作り、全国へばら撒いたから、その後日本全国に前方後円墳が誕生するのです。それで日本の天皇制が世界に希なる君主国を維持しえたのです。
十二景行天皇の本妻の子に、大碓皇子や小碓命(日本武尊)等の皇子が居たのですが、早世した大碓皇子は別としても、小碓命(日本武尊)が居て、小碓命は弟橘媛命や両道入姫命や吉備武彦命の子安戸武媛や尾張氏の子宮簀姫などと結婚しており、日本武尊が東国遠征の時に走水から房総半島に渡ろうとした時に、暴風雨で船が難破しそうになり、妻の弟橘媛命が「自分が夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と言って入水して死んだのです。結局両道入姫命の子供 足仲彦が第十四代の仲哀天皇に成りますが、問題は第十三代の成務天皇なのです。日本武尊が死に、景行天皇后の播磨稲目大郎姫が死に、後添えの八坂入姫命の子を皇太子にし、第十三代天皇にしたのです。悪く言えば、妾の子を天皇にしたのです。だから倭国は日本武尊派と、成務天皇派に分かれたのですが、第十一代垂仁天皇后日葉酢媛命の生地、.丹波に近い気長足.姫(神功皇后)を仲哀天皇の妻に迎えて収まったのです。だから諡号が成務天皇なのです。雄略天皇の子清寧天皇は、父の非業さを知っているので、妻も娶らず崩御したのですが、天皇は正当派に譲るべきと考えていたのでしょうか?又 次々と代わる天皇に成り代わって、清寧天皇は朝貢したと思われます。
倭国大乱とは
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